内海町は周囲約30km、面積12.6km2の波静かな風光明媚な瀬戸内海のほぼ中央、広島県の東南部沼隈半島の沖約500mに浮かぶ田島・横島の2つの島からなり東に沼隈町阿伏兎岬に接し、西に因島市、南は燧灘をへだて愛媛県を望む福山市最南端部に位置しています。1989年(平成元年)に開通した内海大橋が大きなインパクトをもたらし広島県東部の海洋レクリエーション拠点となりつつあります。また、町内の一部は瀬戸内海国立公園、広島県自然環境是保全地域、広島自然海浜保全地域に指定され、青い海と緑の島で豊かなな備後圏の休養地として皆様にご満足していただける憩いのアイランドです。
内海町は、瀬戸内海に浮かぶ田島、横島、矢ノ島、当木島が寄り添う小さな町ですが、島の緑と瀬戸内海の青のコントラストが美しい、自然環境豊かなところです。その1つが、横島のふれあいの森の先端にある釜戸岬。県の自然環境保全地域に指定されたこの岬にたたずむと、海に向かって切り立つ奇岩あり、波に浸食された海食洞あり、と造形の美しさに引き込まれるようです。
一方、県の自然海浜保全地区に指定されている、鳶ガ巣海岸は、古歌にも歌われた美しい海岸線とむき出し茶色の岩肌、緑の樹林が織りなす造形美が際立ちます。海辺を離れて横島の内陸に歩を進めると、こんもりと茂る釜戸山に町民のレジャースポット「ふれあいの森」があり、晴れた日には、頂上から遠く四国の山陰が望めます。さらに、田島の内浦山憩の森公園に足を伸ばすと、
頂上から対岸の名勝阿伏兎観音、鞆の浦から敷名にかかる内海大橋のドライブラインまで360度のパノラマ風景が広がります。また田島の「町」地区には、明治の頃、海外で成功を収めた人々が建てた白いナマコ壁の町並みが残されており、往時の栄華がしのばれます。内海町は自然景観と歴史文化が美しく調和する風情豊かな町です。
静かな波、温暖な気候の瀬戸内海に浮かぶ内海町は、広島県東南沼隈半島の2つの島、田島・横島からなります。平成元年内海大橋で沼隈町と結ばれました。 一部瀬戸内海国立公園県自然環境保全地域に指定され、青い海と緑に囲まれた自然豊かなこの町の歴史は島の至るところにあります。
那須与一「守り本尊」の善正寺 1185年(文治元)那須与一宗隆が堂宇再建しました。自らの守り本尊として、陣中、肌身離さず長髪の中へ持ち歩いていた一寸八分の地獄菩薩を堂中に安置したことからだそうです。
田島の水野神社(天満)(水野勝成を祀る)祭神は福山藩主、水野勝成公。神社の正面蛙股には立沢瀉が掘り込まれてます!
常楽院(平地区)(水軍菩提寺) 福山領に入った水野勝成は、戦乱で荒廃した領内の多くの寺社を再興・修復するために力を入れました。田島村上水軍の菩提寺であった常楽院は、勝成から本堂欄間や本堂屋根瓦・山門の瓦などに水野家の沢瀉紋を許されております。
六地蔵堂(七区) 2004年(平成14)堂が再建。村上家の古文書によると、「村上又左衛門就常の曾孫・又七朗が、祖父から譲り受けた由緒ある木仏と石仏の二体を百島の西林寺へ寄進し、残り6体の地蔵は、文禄の朝鮮戦役で犠牲になった戦死者を供養するために横島に安置した」とある。
胴八幡社(横島八幡社内) 1700年(元禄13)、住古、藁江村、常石村、横島村3村の鎮守であった常石八幡宮の祭礼の日、横島村の氏子たちは折からの暴風で船が進まず、宮座の寄り合いに遅刻してしまった。ところが、神社ではすでに祭礼が進行しており、怒った横島村の氏子たちは、神社の御神体の奪い合いを演じ、胴体部分を懐中に入れて持ち帰ってしまいました。横島村子衆は持ち帰った御神体をしばらくは笠が岨に安置し、その後弁天社のバベの木の陰に安置して祠を建てましたが、その後になって横島八幡神社に分祀ししました。八幡神社を通称「胴八幡」とよぶようになったのはそのためだと言われています。
クジラ網の里・田島 江戸時代、西海捕鯨で備後田島の者は鯨網職人・双海船乗りとして西海鯨組に重用された。